平成30年2月号

「神様と日本人」

 毎年、年初め恒例の元朝参り。紅白歌合戦の視聴後、早速地元の氏神様の八幡神社へ足を運ぶ。神社入口の狛犬に、大鳥居を前にして、頭を垂れ、手を合わせ一揖、その後、参道を進む。参道、石段は、掃き清められ気持ち良い。五感が研ぎ澄まされるようで、身の引き締まる思いだ。ほどなく拝殿に到着する。
 新しい年を迎えるには、僅かだが時間に余裕があるせいか参拝者は多くない。神社の世話人の方々や参拝者の方々に対し、旧年のご厚誼に感謝の挨拶をさせて頂くや否や新たな年を迎えた。気が付けば狭い拝殿には家族連れ等で長蛇の列。居並ぶ参拝者にいそいそと新年の挨拶を交わしながら最後尾に並ぶ。お賽銭をあげ、鈴緒を手に取り両腕に力を込め、鈴を鳴らす。本殿に目をやり、昨年一年間の無事に感謝し、今年も一年の無病息災、家内安全を祈った。
 毎年の恒例行事。当り前の様に多くの日本人が初詣に足を運ぶ。でも何故とふと思った。何故日本人は初詣に神社へ足を運ぶのか?いつからこの習慣は始まったのか?地元の八幡神社を始め、神社の数、勧請年、祀る神様の本体は?等々、分からないことばかり。
 そんなことを思いながら、今月号は神様と日本人、神社と私たちの関わりについて調べ、識者にお話を伺った内容について書いてみることにした。
 まずは初詣についてだが、この習慣が広く庶民に浸透したのは江戸時代からだと言われている。今では日本人12,600万人のうち、正月三が日で9,939万人(2009年時)にも上ると言われている。なぜ、これほどの人が神社を訪れるのか。不思議に思うと同時に、日本人なら日本人であるからこそ分かるような気もする。たった一夜明けただけで、まったく全てが新しく感じられる。その神秘さが多くの人たちを神社に足を運ばさせている所以なのだろう。神様の姿が見えなくとも、日本人の精神性と神様とが強い絆で結ばれているからなのではと強く感じている。正月を迎えると家々に歳神様をお迎えし、「穀物神」、「祖先神」に感謝し、神社で地域の人々と共にその地域の神々に感謝しお祈りする。そして私たちをお守り頂くと共にささいなお願いごとを聞き入れる。このようにはるか昔から、神様の存在を感じとってきた日本人。しかしこの神聖な神社についても知らないことばかり。
 まずは、全国、県内、矢吹町には一体どれ位あるのかについてだが、全国の神社の数は、何と約8万社。県内には、3,170社。そして、矢吹町には17社あるという。町内の一つゝの神社の名前を紹介することは控えるが、これ程の神社があったことは驚くより他ない。
 矢吹町史の編纂に長く携わった町内きっての郷土史研究者でもある、曙町在住の藤田正雄先生に先日お会いし、知らないことだらけの神社のお話を聞かせて頂いた。事前に「目で見る矢吹町史」、「矢吹町史第5巻 民俗論」(以下「矢吹町史」という)に目を通してみたが、1~2回、目を通しただけでは所栓付け焼刃、到底理解出来なかったからである。過去を遡ると、旧矢吹村の寺社を記載した「寺社明納帳」(明治11年11月編纂)があり、先生所有の原本の写しを見せて頂いた。寺社数が明らかに分かる資料は旧矢吹町のみであり、旧中畑村、旧三神村の寺社数、寺社名が分る資料は現存しないという。また、「矢吹町史」、昭和28年~29年当時の「西白河郡史」(大正4年編纂)には資料に基づき、矢吹町の神社数、神社名の記載と共にそれぞれの神社について、所謂、謂れについて記されている。先生の話によれば、明治から現在までの神社数は、変ってないとのこと。なかでも、気になるのは、やはり私の地元の氏神様の八幡神社のこと。
 その八幡神社の謂れ、併せて、現在の新町・八幡町等が、かつて中畑新田村であったことについても先生のお話や「矢吹町史」に基づき、書き進めてみたい。
 「矢吹町史」によれば、中畑新田村は、渡辺主水輝(結城白川義親の旧臣)がこの地に土着し、慶長元年(1596)、会津藩主蒲生氏郷の命を受け、奉行加藤志摩守のもと、大和久村の赤阪(坂)を開発して、駅所を建てたと伝られ、併せて、「白河風土記」によれば、その後、元和6年(1620)、中畑村から民家38戸を移し、中畑新田村を称したとある。また、「白河風土記」に中畑新田村に八幡宮とあり、一説によれば中畑地区の根宿に鎮座する八幡神社の分祀ともいわれ、1608年に勧請されたと記されている。先述した「社寺明細帳」によれば、一村44戸持とある。祀られている祭神は「誉ほんだわけのみこと田別尊」であり、中畑根宿の八幡神社も同じである。因みに、「誉田別尊」とは、第15代応神天皇(在位270~310)であり、八幡神社は、代表的な武神、戦の神の一つである。特に中世以降、源氏が、この八幡神社を崇拝し、絶大な勢力を持つ源氏の力により、八幡神社の数は全国7,817社と最大の数を誇っている。
 なお、このお話を先生から聞かされると同時に先生所有の「白河風土記」の原本の写しを見せて頂き、直接文章を読ませて頂く好機を得たことは望外の喜びであった。この「白河風土記」(1810年頃、松平定信編纂)は、矢吹の歴史を語る上では非常に重要な歴史資料である。さらに、以前から気になっていた「十返舎一九」の「金か ねのわらじ草鞋奥州編」の写しも見せて頂いたことも付け加えておく。
 長々と書き進めてきたが、お分り頂けたでしょうか。今回、家人や地元の識者にお話を伺い、地元の歴史を知ったことは非常に有意義であったことを改めて痛感しました。
結びに、藤田正雄先生には貴重なお話を頂き、また貴重な資料をお見せ頂いたことに、心から感謝しながら今月のひと言といたします。

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