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平成31年4月号

「いだてん~2020東京オリンピックを想う」


 皆さんは、日曜夜のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリンピック噺~」を見ていますか。私の場合、日曜の夜は、食後の唯一の楽しみとして、このドラマを見るのが至福の時間でもある。
 このドラマは、日本人が初めてオリンピックに参加した明治の終りから、1964年(昭和39年)の東京オリンピックまでの激動の半世紀を描いたドラマである。この「いだてん」の主人公は「日本で初めてオリンピックに参加した男」 金栗四三(しそう)(中村勘九郎)と、「日本にオリンピックを呼んだ男」田畑政治(まさじ)(阿部サダヲ)の2人である。その他にも主役を支えるキャストとして嘉納冶五郎役の役所広司、後に金栗の妻となるスヤ役の綾瀬はるか、また、金栗と共に、日本人初のオリンピック選手に選ばれた短距離選手三島弥彦役の生田斗真など、豪華な顔ぶれが並ぶ。また、ドラマの語り手として、稀代の名落語家古今亭志ん生役をビートたけしが演じている。ドラマの中の「東京オリンピック噺」の落語をたけし独特の軽快な語りにのせ、笑いの絶えない、また、ドラマを視聴する人を惹きつけてやまない。明治から昭和への庶民の暮しの移ろい、初出場のオリンピックから、東京オリンピック開催までの数々のオリンピックの紹介と、金栗を始めとする選手の活躍、そして、その時々の東京の街並みの変遷など、実に興味深くこのドラマは仕立てられている。
 それでは、このドラマに登場する主役2人について書き進めてみたい。
 まずは、金栗四三。因みにこの風変わりな名前「四三」は、父が43歳の時に生れた子供ということで名付けられたという。熊本の山奥で育った超自然児にして、「韋駄天」。小学生の時には学校までの片道6km、往復12kmの道のりを毎日走り続けた。成績は優秀で、旧制中学を卒業後は海軍兵学校を目指すも、入隊の際の身体検査で結膜炎と診断され不合格。この検査が後に金栗の運命を変えることになった。その後教師を目指すため東京師範学校(現:筑波大学)に入学。校長は、柔道の創始者であり、日本の近代スポーツ界のパイオニア、嘉納冶五郎であった。
 オリンピックという存在も知らず、東京羽田で開かれた、「ストックホルムオリンピック」マラソンの予選会で、まさかの世界記録を樹立。一躍時の人に。しかし、オリンピックに日本人として初めて参加した1912年の「ストックホルム大会」では、船と汽車での20日間以上の長旅、また、北欧独特の白夜で眠れず、そして慣れない食事、追い打ちをかけるように記録のプレッシャーと大会当日の30度を越す猛暑による熱中症等で、走り出したものの26km付近で失神し、「国辱」とも言える苦痛を味わうことに。しかし、この話しには感動するドラマが待っていた。レースは続いていたのである。1967年開催の「ストックホルム大会55周年記念式典」に招待された金栗は、式典関係者に「今日、この記念式典でマラソンのゴールをしてほしい」と促され、当時のグラウンドを走り見事ゴールしたのである。
 その記録は、「54年8か月と6日、5時間32分20秒3。」「これをもって、第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します。」とのアナウンスに万雷の拍手が鳴り止まなかったという。
 話しを戻すが、惨敗を喫したストックホルム大会後も、金栗は諦めずに再起を誓う。4年後に向けて発奮し、血の滲むような練習に励むが、第一次世界大戦の勃発で、1916年開催予定だった「ベルリン大会」が中止となる悲運を味わうことに。その後、夢でもあった教師となった後も走り続け、1920年の「アントワープ大会」では、16位。1924年には途中棄権したものの「パリ大会」にも出場するなど、走り続けた。そして嘉納冶五郎や、後に詳しく紹介する田畑政治等と共に、夢でもあり念願だった東京でのオリンピックの開催招致に奔走する金栗だった。懸命の招致活動が奏功し、遂に「東京大会」が1940年に開催されることが決まったが、第二次世界大戦で幻となった。
 しかし、その後も田畑等の活躍で、遂に悲願であった「東京大会」が1964年開催されることに決まったのである。
 そして、この東京オリンピック開催までがドラマ後半の最大の見せ場となる。日本でのオリンピック開催を決して諦めなかった男。その男の名は田畑政治。このドラマのもう1人の主役である。
 田畑は浜松生まれ。実家は造り酒屋で浜松一のお金持ちといわれるほど財産があったという。浜名湾を目の前にして育った田畑少年は、水泳に強く心惹かれるようになる。泳ぐことが得意と同時に、少年時代から学業で成績優秀な若者に育ち、東京帝国大学を卒業後は、朝日新聞社に入社。トントン拍子に出世し、代表取締役まで昇り詰めた。彼は新聞記者にして水泳指導者。優秀な指導者として彼に育てられた競技者は多い。先にも書かせて頂いたが、田畑、嘉納、金栗等の奮闘で手が届きそうになった1940年の幻の「東京大会」中止の挫折を味わうも、1948年には日本水泳連盟会長とJOC総務主事に就任。田畑は、「東京オリンピック」開催の夢を追い続け、遂に1959年(昭和34年)IOC総会の席上日本での開催が決まった。「トウキョウ」と。ドラマを見ながら思う。「2020東京オリンピック」開催まで残り490日余り。それにしても、「2020東京オリンピック」開催は実に楽しみだ。皆さんも覚えているでしょう。2013年9月7日、「2020東京オリンピック」開催に向けての最終プレゼンの模様を。アルゼンチンのブエノスアイレスで開かれたIOC総会の席上で、ジャック・ロゲ会長が「TOKYO」と発表した瞬間を。
 このドラマは今第11話。宮藤官九郎が描き出す全47話のこのドラマの展開も楽しみにしながら、「2020東京オリンピック」に思いを馳せ、今月の私のひと言とする。
 

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