学び・文化・スポーツ
矢吹が原の軌跡 その2
矢吹が原に舞い降りた飛行機は人々の夢や希望のシンボルでした。
昭和12年、陸軍の飛行場として開場した矢吹飛行場。
しかし、しだいに激しさを増す戦局は飛行場を悲しい結末へと導き、 敗戦とともに、矢吹飛行場は静かにその役割を終えました。
本土空襲はしだいに激しさを増し、飛行場は攻撃目標として 狙われました。昭和20年8月9日、10日の空襲により 矢吹飛行場は破壊され、飛行場としての機能を失いました。
こうしたことから、矢吹が原の平坦な土地は陸軍飛行場の候補地として注目され、昭和十二年五月二十三日には陸軍飛行場として開場しました。戦局がしだいに激しさを増す中で、昭和十五年八月二十五日には矢吹が原飛行場に熊谷陸軍飛行学校矢吹分教場が設置されました。教官パイロットが次々と配属され、他兵科より航空に移った伍長、曹長クラスの下士官学生が次々と移ってきて、厳しい訓練を行いました。
また、昭和十八年には学徒動員令により学業半ばにした学生が特別操縦見習士官として入校してきました。彼らは消耗を続けるパイロットの促成補充を目的としたばかりでなく、戦争末期には爆弾を抱えて敵に体当たりする特攻隊員となる運命も担っていました。
昭和二十年になると、敗戦が色濃くなり、本土空襲は激しさを増し、飛行場は攻撃目標として狙われました。こうしたなか、同年八月九日、十日の空襲により矢吹飛行場も破壊され、飛行場としての機能を失いました。昭和二十年八月十五日、敗戦。陸軍の解体と共に、矢吹飛行場はその短い歴史に幕を閉じたのです。
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