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矢吹が原の軌跡 その1

かつては「行方野」と呼ばれた荒涼とした原野であった矢吹が原。
明治時代には宮内庁の御猟場として、戦中は陸軍の飛行場として使用されながら、 いつの時代にも、その水利の悪さが大きな課題となっていました。
その後、国営開墾事業の開始と羽鳥ダムの完成により、乾いた原野は 現在の肥沃な農業地帯へと生まれ変わりました。矢吹が原の軌跡は さまざまな困難を乗り越え、発展を遂げてきた矢吹町の歴史そのものなのです。

『矢吹が原の軌跡01』の画像

福島の玄関口に広がる矢吹が原は、自然に恵まれた野鳥や野性動物たちの楽園でした。
明治18年には宮内庁管轄の御料地となり、明治24年に「岩瀬御猟場」が誕生。
東郷平八郎、乃木希典、島村速雄など国内外の名士が多く訪れた岩瀬御猟場は、 矢吹町の経済や文化に大きな影響を与えた歴史的にも貴重な場所です。
当時の岩瀬御猟場には、常時3千羽の雉子が棲息し、 当時の御猟場監守たちは毎日丹念に見廻りをし、 雉子の棲息状況の観察と密猟の取り締りにあたりました。
矢吹町はその昔、「行方野」と呼ばれる広大な原野を中心とする土地でした。 藩政時代には奥州街道の宿場町として栄えましたが、その水利の悪さからなかなか開発が進まず、豊かな自然が残されたままになっていました。
3千ヘクタールにもおよぶ自然豊かな原野は、明治時代になると、宮内庁管轄の御料地となり、明治二十四年からは生息する雉や野兎を対象とした宮内省直営の御猟場「岩瀬御猟場」となりました。
国内では明治初年に東京の植物御苑(現新宿御苑)に鴨猟の御猟場が設けられたのが最初で、その後、明治十五年に日光御料場に鹿猟の日光御猟場、明治二十四年に岩瀬御料地に雉子猟のための岩瀬御猟場が設けられました。その後も赤城山や天城などの各御料地内に御猟場が設けられ、大正十四年に廃止されるまで使用されました。



『矢吹が原の軌跡02』の画像

当時の日本では、御猟場は皇室の狩猟場であり、一般市民の狩猟は禁止されていました。日本の御猟場は、欧州諸国の王室が所有する狩場にならって、特に外国高官との交歓の場として利用されていたため、皇族をはじめ、政府高官、外国政府の要人など、国内外の名士が多く岩瀬御猟場を訪れ、猟を楽しんだといいます。なかでも東郷平八郎提督は、御猟場の常連の一人だったといわれています。この頃から行方野は、「矢吹が原」と呼ばれるようになりました。



『矢吹が原の軌跡03』の画像

当時の岩瀬御猟場には、常時3千羽の雉子が棲息していたといわれ、御猟場内は監守の部下達が毎日丹念に「見廻り」をし、雉子の棲息状況の観察と密猟取り締りに熱心にあたったそうです。
しかし、この岩瀬御料地と御猟場の存在が、矢吹が原の開拓に大きな影響を与え、昭和に入って岩瀬御料地と県有地との交換が実現するまで、羽鳥用水は矢吹が原に通水することができませんでした。



『矢吹が原の軌跡04』の画像

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